市民がつくる市民塾白壁アカデミア白壁アカデミア代表世話人の一人 井澤知旦

都市のアルバム

 都市の今日の姿は、歴史の蓄積のうえに成り立っている。その蓄積が多様であるほど、都市に陰影をつけ、都市文化に奥行きを与えるものになる。あそこには江戸時代の町並みが、ここには明治・大正期の建築群が残り、この寺は300年前からここに存在し………。このような建築資産は、いわば都市のアルバムである。人々がアルバムをひもとくとき、来し方を辿ることで、自己のアイデンティティを再確認し、行く末を展望するように、都市自身のアイデンティティを確認しながら、未来を思うものである。しかし、現実はアルバムから写真が一枚一枚と剥がれ落ちてきている。

白壁地区と建築資産

 名古屋は第二次世界大戦で幾度もの空襲を受け、既成市街地の大部分が焦土と化した。しかし、そのなかで罹災を免れて現在まで歴史を繋いできている地区もある。有松、中村大門、覚王山、八事などの界隈がそれである。

 これらの一つに白壁地区がある。ここは白壁、主税町、撞木町など由緒ある地名を持つゾーンの総称であり、名古屋城から南東に一・五qのところに位置している。

 江戸時代には中級武士(300石級の組頭)の屋敷群であった。「中級」といっても平均700坪程度の敷地を抱え、現代では大邸宅の部類に入る。明治になると、士族授産の展開により、近代産業の推進の地になっていった。白壁一帯は、瀬戸・多治見の両街道の集合点に近く、敷地規模が大きいため転用が可能であるものの、住宅地のため商業が不向き等の理由から、陶磁器の絵付け業や卸問屋が集積していった。大正中期になると工場系はより外縁へ移転していく。明治後期から昭和初期の間に、名古屋の財界人のモダンな邸宅も建ち並ぶようになる。よって、白壁地区の建築資産は明治後期から昭和初期にかけての近代建築である。

 戦後、高度経済成長とともに徐々に近代建築は姿を消していく。1985年には町並み保存地区に指定され、「歴史的建築物」が当時で60棟あったが、すでに50棟を切った。多くはマンション等に建て替わっている。なかには白壁の塀と門を残したマンションの例もあるが、ここ特有の環境は確実に変化してきている。

 一敷地一住宅の規模が大きいだけに、住宅の修理や庭の管理などの経費も莫迦にならず、まして相続が発生した場合には、個人資産では対処しきれない場面が多々生まれ、近代建築が消えていくのである。つまり個人の力で保存することに限界がきており、それにかわって市民社会として如何に支えていくのかが問われる時代になってきた。

新しい二十一世紀の知の集積

 世紀末を迎えて、不況、株安、倒産といった暗いニュースが流れてくる。いまや、確実に日本社会は曲がり角にある。成長社会から成熟社会への転換である。銀行の護送船団方式が問題を露呈したように、市民の護送船団方式(みんなで渡れば方式)も壁にぶつかっている。自ら考え行動し、責任がとれる市民の登場が待たれる。都市も工業や商業の集積によって、活力を維持してきたが、産業の空洞化、中心市街地の空洞化が問題となっているように、新たな活力源を見出す時代に来ている。つまり、都市生き残りの活力源と社会インフラは何かが問われているのだ。

 その答えの一つが「新しい二十一世紀の知」ではないだろうか。従来、「知」は大学がその役割を担ってきたが、就学人口の減少とも相まって、大学自身も曲がり角に来ている。知の伝達から創造へ、専門分化から統合へ、象牙の塔から社会との連携へと広がりが求められている。

 そこで、新しい酒には新しい革袋が必要なように、大学でも文化サロンでもない、新しい「知」の場が求められる。それは何か。市民がつくる市民塾である。江戸時代には寺子屋や私塾が庶民のレベルアップに大きく貢献し、明治以降は大学が続々生まれて、国民のレベルアップを図った。これからは市民自身が自ら学びたいテーマを据えて、自ら運営していく市民塾の時代である。さまざまな市民塾が生まれ、集積することで、知のインフラは確固たるものになる。

そこで白壁アカデミア登場

 これらの近代建築資産を単に「残そう」と言うだけでは力にならない。自らが残せる道を探って、行動していかなくてはならない。

 そこで平成8年頃から*、民間企業、大学関係、行政関係、地域住民、コンサルタントなどのメンバーがボランティアで集まり、平成9年には本格的に検討が積み重ねられた。

 一般に町並みの活用といえば、商業的利用が多い。しかし、白壁地区は住宅地であり、居住者は静かに暮らしたいというのが本音である。地区内にはいくつかの高級料亭があるが、不特定の人々が多数集まる類のものではない。いわば「静かな集客」で住宅地と共存している。そこで登場したのが、前述した「二十一世紀の知の集積」をはかる市民塾「白壁アカデミア」の展開であった。

 平成10年10月にプレシンポジウムを行い、本格的な活動が始まった。当面は次の二つの活動を柱にしている。小さく生んで大きく育てようという魂胆である。第一に公開講座であり、第一線で活躍されている方々に登場していただき、「21世紀の知」を多面的に議論しようというものであり、当初6回は大学学長シリーズを展開している。第二に研究講座であり、専門的なテーマで聴講型でなく参加型の講座(全8回)をめざし、3講座を用意しスタートしている。

 活動の基本はボランティアである。自前で資金も労働力も知恵も出し合っている。

そして今後の展望

 「白壁アカデミア」の展開は緒に就いたばかりである。この活動だけで歴史的な町並みが保全活用されるわけではない。今後は市民・民間・大学・行政のパートナーシップを形成していく必要があろう。また白壁地区に住んでいる人々の支持を得ることが不可欠である。公開講座や研究講座が白壁の保存活用を取り扱っていないとの批判がすでにある。そのために白壁の歴史を学び、未来を考える研究会を開催していきたい。さらに、全国の建築資産をまちづくりに活かしている事例を

 学び、交流を深めていきたい。白壁、黒壁、赤壁、黄壁、青壁?………壁のある町並み。

 行政も名古屋城から徳川園を結ぶ「文化の道」構想を展開することになっているので、その道の途上にある白壁地区で一翼を担うことを期待したい。民間も企業市民としてスポンサーシップで活動を支援するなどパートナーシップを組んでいきたい。複数の大学が社会人教育や大学院教育の場、すなわち都心部のサテライト教室として活用して、「知の集積」の厚みを増したい。

 

 このような展開が進むなら、社会的に地区を支える体制が整う。その結果、都市のアルバムから白壁の写真は剥がれ落ちず、いつまでも残るであろう。また、この白壁地区の活動が一つのモデルとして、他地区に広がっていけば、表情豊かな都市のアルバムができるに違いない。

 

*このような展開の契機として、愛知建築士会による白壁地区等での町並み見学会の開催や撞木館(井元邸)での諸活動などの蓄積があったことを付記しておく。

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