好き勝手にエッセイ デザインゲームって何?/山内豊佳

ザインゲームって一体何なんですかぁ?と聞かれて少し困った、うーんキチンと答えづらい。だいたい、「デザイン」自体が言葉で説明しづらい。なんかすっごくアートなモノを想像しちゃって、一般ピープルには関係ないものみたいに聞こえる。あれ、同じセリフ前にも聞いたような…。あらら、懐かしい、もうかれこれ10年昔の話しですね。かの「デザイン博覧会」の時も、みんな説明するのに苦労してました。

の「デザイン」ってのを誰にでも解かるように表現して欲しいってことで、デ博のはじまる前に寸劇つくったことがあります。題して「デザインって何だ」スッゴイそのまんま!そりゃやっぱ、チンプンカンプンな彫刻を置きまくることだけじゃないだろうって事で、その時深〜く考えて作った話というのが、どこにでもある商店街の、どこにでもいる

うどん屋のオヤジさんの平凡な一日の話しでした。

ヤジさんが商店街を道ゆく人のために「花を飾る」、涼しげに店先に「水を打つ」、そんなことが「デザイン」なんだって、商店街の毎日の暮らしの中から見つけだしていくストーリー。そして、うどん屋のオヤジさんはラストシーンでこう叫ぶ。「ワシもデザイナーなんだぎゃー!」

そう、誰だって皆、暮らしの中でデザイナーしてるんです。人の趣味なんて一様じゃないですから、デザインの良し悪しは、そのカタチだけでは判断なんかできない。その場や空間に対するバランスが大切で、まちづくりだって同じこと。じゃあ、その場を一番よく知っている人は誰か、想っている人は誰かとなってくる。早い話が町のデザインをさせたら、地域の住民にかなうものはないわけですよね。

型づくりやマップづくり、いろんなデザインゲームがあるけれど、そのまちに想いを持った時から、デザインはすでに始まっているわけで、決して作品づくりだけが目的じゃない。だから巧く仕上げなくたって全然かまわない、間に合わなかったら途中だっていい。その表現方法すら、用意する側の手間が問題なだけで、紙芝居が一番表現しやすければそうすればイイし、絵でも、歌でも、とにかく表現方法は何でもイイ、想いを伝えるためなら何でもあり!ってのがデザインゲームだと思うんです。

て、昨年度に建築士会トリエンナーレ委員会主催のデザインゲームの企画と進行をしました。

この会は、「建築資産をまちづくりに活かす」をテーマに、近代の建築資産や町並みの保存のため白壁・覚王山・中村・八事地区などを中心に、具体的な活用の方法を提案しよう、というボランティアの会です。シンポジウムや見学会など、これまでもいろいろ、事例を紹介する工夫はしてきたものの、時代の厳しさから、個人の所有財産である多くの建築は、真剣に岐路に立たされてきた危機感もあって、建築を町の財産として地域の人に考えてもらう必要があるぞ!と、有松まちづくりの会からの依頼をうけた事を機に、有松でのデザインゲームを実施することとなりました。

松でのデザインゲーム参加者は、建築士会のメンバーが半分と、有松まちづくりの会、住民、絞り作家さんなどの地域の人が半分でした。さて、地域の人は良いとして、なにかとカタチ重視になりがちの建築畑の人たちのために、あえてデザインゲームの内容は、町並みをデザインするというよりも、人をデザインすることに重点を置くことに決めました。ここは、なんとしても寸劇表現、参加者に役づくりをしてもらうしかない、つまりはその地域の「うどん屋のオヤジさん」になって欲しかったんです。この町で生きてきた、そして今も生きている、良いことも悪いことも皆ひっくるめて、町を想っている。地元の参加者だけではなく、外部メンバーも含めて、参加者全員が同じ舞台に立って欲しくて、まちに関わる人たちの暮らしのデザインづくり「創作劇 有松ストーリー」というドラマゲームの形に挑戦してみました。

ーム名は絞りの技法からとった「柳」「杢目」「嵐」「鹿ノ子」「三浦」の5チーム。各チームが創作したストーリーをここに紹介します。

『ダンディな藍染めデザイナーが繰り広げる、浴衣の似合う・空き家工房ストーリー』

『絞り作家が国際交流の拠点を創りあげていく、絞りがキーワード・国際学園ストーリー』

『町並みの裏手につくられた有松の玄関から、美人女優がお忍びで訪ねる、有松版・失楽園』

『藍染川の散策路を歩く、元キャリアウーマンの一人語り、私の第二の故郷・有松』

『人の良いギャラリーオーナーが仕掛けていく、絞りの小路・週替わりのお祭り物語』

性的で、アイデアいっぱいの物語が飛び出してきました。なおかつ、さすがは建築屋、具体的な解決策がしっかり盛り込まれたものばかり。そして短い時間で、皆さんちゃんと役者もしてました。よく、女優は「本気で相手に恋する」と言うけれど、あの現象が参加者全員におこっていたのだと思います。有松のまちに関わる人物を創作し、その役の目を通して想うことで、参加者は地域に本気で恋しちゃうし、住民は改めてホレなおすことになる。相手をもっと知りたい、もっと大切にしたいって、その気持ちがまちづくりのリアルな提案へと変化していったのは自然な事ですよね。

域の「うどん屋のオヤジさん」だけのまちづくりが本当は理想的って言いました。でも、いろいろな場面でまちづくりに出会ってみると、当事者だけで声をあげた内発的なまちづくりが、うまく完結しているかといえば、実際はそうじゃない。もちろん始めから足並みが揃うわけはないけれど、永く運動を続けているところでも、行き詰まっている地域が、多いように思います。そういった地域では、逆に外部からの力がとても望まれていて、「よそ者のうどん屋のオヤジ」の言葉を、自分たちの活動の突破口として必要としているのです。

部からの発言は、どこまで地域に対して責任をもてるのかという問題はついてまわります。だけど、「このまちを良くしたい」という、人と人との、同じ心があって始まることには違いはありません。地域の活動を、より素晴らしい結果としていくために、いろんな活動同士をうまくネットワークさせていくことも、今後は重要ですし、また楽しみなことと思います。

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