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家造りの現場から見えてきたもの
 すでに、1年以上前であるがこのメールマガジンで自邸の設計をしていると書いたが、いよいよ完成が近づいてきた。工事は順調に遅れ、7月には必ず完成する。去年の12月から工事に入り、3月に建前を行い、4月には民間検査機関による中間検査を無事終えた。工事中、いろいろな問題が発生するが依頼した工務店は、私の気がつかぬ所まで気を配り、見えない部分で設計以上のことをして頂いていて、感謝している。

 私の設計では、普通ではやらないような部分があるのだが、それは全て理由があるので私のとっては「当然」のことである。しかし、この「当然」が造る方にはなかなか伝わらないし、私が「当然」と思って現場で確認するのを怠ると、違うものが出来ていてびっくりするということが発生する。これを防ぐには担当者や大工さんとよく話し合うことが必要であるが、これが最も楽しい仕事のひとつである。自分の思い描くものをいかに造るかをみんなの知恵を借り、問題を解決するわけである。例えば、私が「コンセントは巾木の上端にそろえたいため、床から高さ12cmで取りつけて下さい。」と言うと、工務店は「胴縁が当って無理です。普通は25cmです。」「そこをなんとか…」(ワイワイとみんなでメージャーを持って会議室の巾木を計り出す。)「堀内さん、18cmなら何とかなります。」「では、それでお願いします。」というような調子である。デザイン的には巾木の上端にそろえられないなら、25cmも18cmもあまり違いはないが、この7cmに施工者の愛を感じるのである。住宅というのは、車や電気製品などの大量生産品と比べると、ほとんどの部分が人の手で造られ、造りながらデザインを決定して行く部分も多く、マンションや建売住宅でも一品生産の製品であると言って良い。せっかく一品生産なのだから、そこに施主の考えや造り手の愛が介在するかしないかは大きな価値の違いではないか。私は一見意味のない7cmに価値を感じる。

 以前、ある方に自宅の建設にまつわるこんな話を聞いた。その人はモダンな家を夢見ていたのだが、頼んだのが腕の立つ大工さんだったため、逆にちょっとしたもめ事が発生する。その家は大きなリビングを引き戸で2部屋に区切れるような設計になっていたのだが、大工さんにはそれがどうしても和風の続き間に見えるらしく、引き戸の上に「ここは腕の見せ所」とばかりに立派な欄間を彫刻してしまったのだ。シンプルな洋風のリビングにそこだけコテコテ民芸品のような欄間が付いてしまい、当然取ってくださいということになる。しかし、大工さんも自分の最高の技術で彫り上げたものに対する意地があり、後には引けず納得しない。結局そのまま、完成となるのだが、しばらくして、その人はそれで良かったと思うようになったそうだ。シンプルな仕上げの内装に人の手作業を実感できるその欄間があると、なんだか落ち着くような気になってきという。その人にとって新たな価値を発見できたのである。価値とは人が誰かのために額に汗して働いてくれたときに芽を出すものではないか。それが、今の社会では、間にいろいろな人が介在するため、価格に置き換えられてしまい、価値を価格でしか判断ができなくなってしまっている。家造りの現場ではさまざまな人が、自分のために額に汗して働く姿を実感でき、自分の新たな価値を発見できる貴重な機会となる。

 さて、「普通のマンションがいい!建築家の家はいやだ!」と言っていた保守的なうちの妻は、私の設計した家をどう思っているか。やはり生活してみないと何とも言えないが、だんだん空間が出来てくるにしたがって、喜んで工事現場に行くようになった。家のことでは妻の堅実な考えと私の建築家としての理想とがぶつかり、よく喧嘩になったが、価値観の違う意見を切り捨てることなく悩みながら設計した結果、どこにもない家ができる。一般的な家ではないので、問題も発生するだろうが、喧嘩したり、悩んだり、失敗したりしたことは「モダンリビングの欄間」のように住宅に刻まれる。それは私1人では見出すことができなかった芽であり、さらにこれから生活しながら大きな価値へと育てていくことができるのである。
(2006.4.28/堀内研自)