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中欧訪問:歴史資産の継承と開放がまちづくりの基本

 中欧に行く機会を得ました。ブダペスト、ウィーン、プラハ等の歴史に名を留める都市訪問です。これら3都市はハプスブルク家が栄華を誇った都市群です。ここではチェコ共和国の首都プラハについて標記テーマを述べます。
1.チェコは観光国でなく工業国
  チェコ共和国の面積は7.8万kuで日本の1/5、人口は1,050万人で日本の1/13の規模を有します。プラハはチェコの首都であり、人口126万人、面積496kuで、人口は名古屋の約半分、面積は1.5倍となっています。チェコは一般的に観光的視点で日本に紹介されることが多いので、観光産業が主要産業のように見えますが、GDPのシェアから見ると「宿泊・飲食サービス」は1.9%、それに対し製造業は25.1%と客観的にみると工業国です。プラハを通じてチェコを見るので観光国に見えるのでしょう。労働生産性は中欧ではトップ水準にあり、日本から多くの企業が進出しています。チェコへの直接投資比率は、1993〜2013年の10年間でドイツ23%、チェコ20%、日本13%、米国8%の順になっています。(資料:中越誠治「チェコ共和国の経済と投資環境」2015.8)
2.支配・被支配の交差と宗教
  首都プラハは、8〜9世紀に最初の居住地が形成され、爾来千年以上の歴史を持つ都市として存在を示しています。11世紀初頭には神聖ローマ帝国の中心として、ヨーロッパで最大の都市として栄え、15世紀からハプスブルグ家(オーストリア=ハンガリー帝国)が統治しました。1918年の第一次世界大戦終結後にオーストリア=ハンガリー帝国が解体し、チェコスロヴァキア共和国が誕生し、社会主義体制に組み入れられました。1968年に「プラハの春」と呼ばれる改革運動が起こりますが、ソ連の鎮圧により失敗しましたが、1989年になって、ベルリンの壁の崩壊と同時に、ここではビロード革命により、ようやく共産党政権は崩壊し、1993年にチェコとスロヴァキアが分離することになりました。そして今日までに約20年以上が経過しています。
  ヨーロッパは陸続きであるため、支配・被支配の関係が入れ替わりながら続く歴史です。また宗教戦争もヨーロッパを席巻しました。今回、いろいろな教会を巡りましたが、宗教の理解なくしてはヨーロッパの国々を理解できないのも事実です。カソリックVSプロテスタントの二項対立ではないようです。プラハはフス戦争(1419〜1439)、三十年戦争(1618〜1648)の発端となった都市です。
3.プラハは時代層が蓄積する都市
  プラハの中心街は第一次・第二次世界大戦での大きな被害(もちろん無傷だったわけではないが)にも、また、その後の資本主義の高度経済成長に伴う市街地の再開発等にも巻き込まれなかったことで、ロマネスク様式の大聖堂、ゴシック様式の修道院、バロック様式の教会、ルネサンス様式の美しい庭園など、すなわちロマネスク建築から近代建築まで各時代の建築様式が並ぶ「ヨーロッパの建築博物館の街」(プラハ市のネット紹介)になり、ユネスコの世界遺産にも登録されています。つまり、時代の層が積み重なる市街地を形成し、その市街地そのものが大きな観光資源になっています。そのためか、プラハはさまざまな映画の撮影場所になっています。ミッションインポッシブル、007カジノロワイヤル、日本映画「のだめカンタービレ」などがそれである。最近の映画「鑑定士と顔のない依頼人」(英題:The Best Offer、原題:La migliore offerta)では、主要撮影場所はイタリア北部であるが、最後のシーンで騙した鑑定依頼人を主人公が探しに出かけた場所がプラハの旧市役所の天文時計のある旧市街広場であり、いわば謎解きの迷宮に入り込んだイメージを表現したものでしょうか。
4.都市そのものが世界遺産 いかに開放するか
  戦後、自動車が普及し、市街地に車が溢れた時、古い建物を壊してセットバックしたうえで新しい建築物を建てる計画でしたが、途中で断念したようです。断念しなければ、世界遺産として取り上げられなかったでしょう。
  1992年にプラハの歴史的地区(Historic Core of Prague)はユネスコ文化遺産として登録されました。この歴史的地区は歴史的遺産地区866?、保存地帯8,963?(緩衝地帯9,052?)であり、双方合わせた面積はプラハ市の18%を占めます。これほど大きい歴史的保存地帯は他に見られません。
  旧市街地を整備するにあたっては、ユネスコの文化遺産のマネジメント計画(Management Plan of UNESCO site)を定め、4つの方針のもと対応しています。@歴史的資産を有するプラハ−新しいものと古いもののバランスをとる、A繁栄するプラハ−経済的な開発も含め、価値の創造をする、B通常のプラハ−普通の都市としての活動を行う、C地域性(中心部、既成市街地、郊外部、周辺部等)の構造を持つプラハ−地域の特徴を生かす、がそれです。
  市街地の中心には旧市街地広場があり、そこから四方八達の道がつながっています。市街地はヴァルタヴァ川の洪水に備えるため、2〜3m底上げをしています。これはウィーンのドナウ川対策と同様です。地震や台風はありませんが、国境のない川は上流から下流へ流れ、時として大洪水をおこします。既存の建物は石造りであるので、埋め立てても朽ちることはありません。従来の1階が地下階になります。天文時計のある旧市役所の横には、第二次大戦で残骸と化したビルの一角が残っていますが、この建物をどうデザインするかは、歴史的地区であるがゆえに難しいテーマとなっているようです。
  ヴァーツラフ通りは13世紀に整備されたものです。当時は馬市場ですが、いまやプラハのシンボルで750m×60〜80mの空間はチェコの時代を画する変革の広場となっています。ここには、チェコスロバキア独立宣言(1918)、プラハの春(1968)、ビロード革命(1989)の舞台となっています。
5.パサージュを通じて建物の開放
  欧州ではもとより教会堂や役所があるところには公共広場が設けられ、戦後には自動車が街に溢れたころ、自動車を追い出して、歩行者専用道(モール)化するなど公共空間を市民のために開放しています。中心部の主要な通りがモールになっている都市がほとんどです。そして、それに奥行きや彩りを与えているのがパサージュです。
  パサージュと言えば、「19世紀から20世紀におけるパリの町並みの変遷や歴史を扱ったベンヤミンの「パサージュ論」が有名ですが、プラハの中心部には、特にヴァーツラフ通りにはパサージュ(屋内街路)が多くあります。なかにはデザインに凝ったパサージュもあり、見ていて楽しい場所になっています。これも(半)公共空間であり、建築物の中を開放し、人々を楽しませています。オープンカフェだけが公共(的)空間の開放ではありません。
  名古屋も都心の道路比率が高いし、閑所をうまく使えばパサージュも演出できるのではないでしょうか。改めて、「公共空間はだれのもの」さらには「公共性の高い都心の建物もだれのもの」が問われています。また、強い意志とコントロールなしでは歴史的資産は守れない、という教訓を得たような気がします。

(2015.10.26/井澤知旦)