特集 過去・未来まちづくり10YEARS

住民参加から住民主体へ

 まちづくりワークショップが全国的普及をみせている。世田谷区などにおける先進的取り組みが研修等を通じて大きな広がりをみせ、1994年には「わくわくワークショップ全国交流会」なるものも開催された。スペーシアにおいても1993年の名古屋市HOPE計画推進の一貫としてのワークショップを皮切りに様々な計画づくりにおいて地元組織とともにワークショップにとりくむケースが増えている。
 住民主体のまちづくりを支える組織として、世田谷まちづくりセンターをはじめ、各地でまちづくりセンターが創設されたことも大きな進展を見せた要因の1つである。当地域でも名古屋都市センターが設立され、基金を用いた住民活動への資金援助も行われるようになった。我々ともかかわりのある白壁アカデミアや夢塾21もその対象となった。
 制度面では1992年に創設された都市マスタープランへの住民参加の義務づけがあげられる。これまで住民とは無縁なところで進められていた都市計画に住民参加の道を開いたという点で重要であり、ワークショップを導入した計画づくりも進められているが、まだまだ不十分と言わざるを得ない。
 「住民参加」という言葉についてはまちづくりの重要なキーワードとして従来からとりあげられてきたが、90年代はその制度面での進展はわずかであったものの実態面では大きな進展をとげ、住民参加から住民主体へと大きな展開があった10年といえよう。


東区橦木町町並み保存地区内にある「橦木館」。まちづくりにむけたとりくみが展開されている。

「まちなか演劇祭'99」のPRポスター

大震災とボランティア

 1995年1月17日に発生した阪神・淡路大震災は、戦後のまちづくりのエポックともいえる出来事であった。まちづくりの優等生といわれた神戸市の光と影、まちづくりの課題を一挙に現実のものとし、多くの教訓を残した。これを機に防災に対する関心が高まり、密集市街地整備法も制定された。制度面の進展を押し進めた出来事であったといえる。
 もう1つ象徴的な出来事としてボランティア活動の進展があげられる。人々の価値観が変わりつつある時代であるとはいってもあれほど多くの人々がボランティアとして被災者支援に関わると誰が予想したであろうか。この後、日本海重油流出事故などでも多くのボランティアが活躍した。さらに、このような活動が1998年のNPO法の成立に結びついていく。NPOの活動が活発化し、市民フォーラム21・NPOセンターなどNPOを支援するNPOができ、名古屋駅前にはNPOの共同オフィスともいえるNPOプラザなごやもオープンした。スペーシアの活動においても様々なNPOとのつきあいが増え、まちづくりにおいてボランティア的な役割を期待されるケースが増えている。
 時代の流れとして市民活動が活発化していく傾向はあったが、阪神・淡路大震災はそれを大きく後押ししたといえるだろう。


阪神大震災により中間階が押しつぶされた建物。都市計画学会の震災復興緊急基礎調査に参加した折に撮影

地球環境問題と市民意識の変化

 地球環境問題がまちづくりにも大きな影響を与えている。1992年の地球サミットは環境問題が一地域の問題にとどまるものではないことを明らかにし、その後の気候変動枠組み条約や環境基本法の制定などにつながっていく。自治体においてもアジェンダ21や環境基本計画の策定が進んでいる。1992年には環境自治体会議が生まれ、地球環境問題の解決に向けて、基礎自治体からの環境政策の推進を目指している。
 さらに、これら環境問題への関心が一部の人々ではなく、多くの市民の関心事となり、自らが主体的に動き出したという点が重要である。特に、当地域においては1999年1月の藤前干潟の埋め立て問題をきっかけにし、ゴミ問題に対する関心が急速に高まり、ゴミ減量が一気に進んだことは象徴的である。中部リサイクルを初め、様々な市民活動が活発化し、名古屋ルールなるものも提唱されている。
 スペーシアの関わるまちづくりにおいても、環境共生や自然再生が重要なテーマの1つとなり、基本計画づくりに関わった岩倉自然生態園ではビオトープが整備されるなど、具体的な整備も進められている。
 環境問題がまちづくりにとりあげられるようになったのは決して目新しいことではない。高度成長期の公害反対運動にはじまり、自然保護運動、街並み保全運動など様々な環境問題がその都度クローズアップされていた。しかし、90年代はこれまで以上に「環境」が大きく取り上げられたという点で特筆できる10年であったといえよう。


「岩倉市自然生態園」。タワーは鳥達の巣となるように設置された。

新市街地開発からまちなか再生へ

 バブル時代、人々は土地を求め郊外へと移り、新市街地開発が行われたが、1990年代初めには土地神話が崩壊し、右肩上がりの成長の時代が終焉を告げた。大店法改正等の規制緩和に伴い商業施設の郊外化が進むことによって、都心から人、モノが流出し「都市の空洞化」が問題となった。さらに、出生率の低下、人口減少も叫ばれ、都市を取巻く環境は大きく変化してきた。 中心市街地の衰退が問題となる中で、中心市街地の活性化が大きな課題としてあげられ、1998年にはいわゆるまちづくり三法が制定され、基本計画にとりくむところが増えてきた。TMOによる活性化事業も各地で検討されている。これまで新市街地開発を中心に行ってきた住宅・都市整備公団が都市基盤整備公団に移行し、既成市街地のまちづくりに事業を移したことはまちなか再生を象徴する出来事といえる。名古屋の都心では、都心の賑わいを生み出す様々な試みが行われた。1996年のナディアパークのオープンは新しい人の流れを生みだし、栄南という言葉も生まれた。1997年には名古屋世界都市景観会議が開催され、スペーシアも関わった賑わいプロジェクトではループバスやオープンカフェの実験が行われ、その後の都心ループバス路線の新設に結びついている。民間によるオープンカフェも増え、大須はベンチャーの若者を集め、元気な商店街として取り上げられ、再開発による新たな魅力も生まれようとしている。 90年代は新市街地開発の時代の余韻を残しつつ、その問題が明らかとなり、まちなか再生へと大きな転機となった10年といえよう。


名古屋世界都市景観会議で試みたオープンカフェ

名古屋駅を起点に栄地区、ランの館、ナディアパーク等を回遊する都心ループバス

インターネットがまちづくりを変える

 パソコン通信として一部の人々に活用されてきた情報通信がインターネットとして大きく普及した。インターネット元年といわれた1995年、早くも大和市では、都市計画マスタープラン策定への住民参加の方法の1つとしてインターネットを取り入れた。自治体のホームページ(HP)開設が相次ぎ、総合計画策定やまちづくりのアイデア募集の方法として利用するところも増えている。愛知県では環境共生フォーラム(98.9〜12 国際博推進局)や愛知21世紀住まい・まちづくりフォーラム(99.4〜12 建築部)において、意見募集、公開という意欲的な取り組みも行われた。
 NPOにおいてもHPが安価なPR手段として活用されており、HP作成を支援するNPOというものも生まれている。NPO活動を進める上ではメールの利用も有効な手段であり、さらにメーリングリストによる意見交換が活動を活発化させている。
 まさに、インターネットがまちづくりを大きく変えようとしているといえるだろう。

バブル崩壊とともに消え去ったキーワード−民間活力

 80年代のキーワードとして1986年の民活法、1987年のリゾート法などにみられる「民間活力」が大きな位置を占めていた。バブル経済は91年の4月を頂点として崩壊していくわけであるが、90年代初頭はバブル期の落とし子ともいえる大規模施設が次々とオープンした時期であった。大阪の天保山、横浜のMM21、神戸のハーバーランドなどウォーターフロント開発がもてはやされた。
 しかし、バブル崩壊はこのような大規模開発に影を落としていく。1995年の都市博中止は象徴的なできごとであったが、その後第三セクターの破綻があいつぎ、自治体破産まで取りざたされるようになっている。スペーシアの業務においても90年代前半にはウォーターフロント開発に関わる調査業務が見られたが、実現を見ないままバブルが崩壊し、新たな局面を迎えている。開発に乗り遅れたといわれる名古屋だが、それが吉とでるか凶とでるか。

愛知万博

 2005年日本国際博覧会の構想が打ち上げられたのが1988年の10月。この10年間に万博構想は時代の変化とともに大きく変化してきた。当初の「21世紀の平和と文明」という平凡なテーマは、1990年2月、開催候補地を瀬戸市南東部地区に決定した後に設置された基本問題懇談会において「技術・文化・交流−新しい地球創造−」にあらためられ、さらに1996年のBIEへの開催申請では「新しい地球創造:自然の叡智 Beyond Development : Rediscovering Nature's Wisdom」と環境問題が全面に打ち出された。1997年6月のBIE総会においてカナダのカルガリーを投票で破り、日本で開催されることが決定した。
 その後、会場地区内でオオタカの営巣確認を契機に、会場計画の見直しがなされ、当初会場の展示が愛知青少年公園などへ移されたり、また環境アセスメントのあり方への批判や膨張した建設費への不満が出るなど、基本的部分で揺れ動いている。
 また、21世紀に入って初の本格的国際博であることから、新しい博覧会像を打ち出すことも求められ、テーマとともに、NPOやNGOなどの市民セクターの主体的参加への期待が高まっている。
BIEに対する国際博覧会の登録は2000年春、はたしてSPACIA20周年のラバダブではどんな報告ができるだろうか。

中部国際空港

 東海地域への国際空港構想が取り沙汰されたのは、1966年頃に遡る。当時は、貨物主体の空港という特徴をだし、関東や関西との差別化を図ろうとしていた。それからオイルショックやバブル景気の中、空港建設に向けた研究等が進められ、23年後の1989年に3県1市の首長により伊勢湾東部(常滑市沖)への空港建設が合意に達した。 
 その後、第6次、第7次空港整備五ヵ年計画への位置づけを経ながら成田、関西と並ぶ国際ハブ空港の建設に向け調査・検討が行われ、1997年11月の政府・自民党の緊急経済対策では、日本版PFI第1号として整備推進することが明記された。さらに、運輸省は正式に第1種空港(国際空港)に位置づけ、国の呼称も「中部国際空港」とされた。 
 近年、世界規模で環境問題がクローズアップされる中、中部国際空港においても、環境に配慮した空港づくりが求められているほか、地域との共生も重要な課題とされ、新世紀にふさわしい空港建設のあり方が問われはじめている。

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