住まいまちづくりコラム

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安土城復元への期待

 

 私の故郷である滋賀県で安土城復元が話題となっている。正月の京都新聞に「県が本腰」との記事が掲載され、新年度から本格的な検討に乗り出すという。安土城については、子どもの頃から何度か訪れ、内藤教授の天守指図に基づく復元案の発表が名工大入学のきっかけの1つでもあったことから関心を持っており、3年前に立ち上がった安土城再建を夢見る会にも参加している。

 

 織田信長は歴史上の偉人として人気が高く、その波乱に満ちた生涯は様々な小説やドラマでもとりあげられている。安土城に関する調査・研究も多く、その先進性が報告されている。

・城郭史上初めての高層の天主を有する城

・天下布武を象徴し、人々に知らしめるための城

・守るための城ではなく見せるための城

・山頂の天主に信長が生活(高層建築物を住居とした最初の日本人)

・麓から山頂の天主に向かってまっすぐに伸びる大手道

・天道思想を実現するため神道、キリスト教、仏教、儒教の要素を取り入れ etc

 

 それまでになかった破天荒な城郭で、宣教師のフロイスはその著書で「私たちの塔より気品があり壮大な建築」と記している。信長は狩野永徳にその姿を正確に描かせたという「安土城図屏風」をローマ教皇に献上しており、安土城は世界に知られた存在だと言える。

 日本に対する関心が高まり、インバウンドが拡大している中で安土城は魅力的なコンテンツだ。現在は石垣などを残すのみであるが、ここに壮大な安土城が復元されれば、大きなインパクトを与えることは間違いない。

 しかし、復元は容易ではない。安土城の正確な姿が明らかになっていないからだ。行方不明になっている「安土城図屏風」の発見が期待されているが、たとえ発見されてもわかるのは外観だけ。内部構造についてはいくつかの案がだされており、見解が分かれている。

史跡等における歴史的建造物の復元については、厳しい基準があり、高い蓋然性をもつことが求められているが、平城京では蓋然性に乏しいからといって「草原」状態のままにしておくということではなく、史跡の価値を正しく伝え、地域の人々に大切にされることにより、次世代に確実に継承することを目的として太極殿等の復元が行われている。復元案の蓋然性が高まれば、安土城の価値を正しく伝える上でも復元は重要である。聞くところによると地元の人の方が安土城に対する関心は低いともいう。安土町が近江八幡市と合併した際に新市名を安土八幡市にしようという動きがあったが、否定されてしまった。「安土」の方が世界に通じるブランド名だっただろうに。

 

 正月の新聞報道では城址に近く史跡指定以外の場所にコンクリート造で再建するのが現実的との記述もあったが、信長の思想と異なる城を造っても意味はない。文化庁の了解を得て復元するまでには時間はかかっても元あった場所に木造で復元することが重要であり、そのような形で復元されることによって次世代継承される文化財になりうるだろう。

さらに、安土城の価値はその立地にあり、まちづくりとの一体的取り組みが求められる。まちなかにはだいぶ埋められてしまったようだが、水路が結構あり魅力的だ。信長が好んで行わせた「竹相撲」発祥の地と伝えられる神社など信長ゆかりの地も点在している。今は農地となっている安土城北側はかつて湖であり、安土城は坂本城や長浜城、大溝城とともに琵琶湖を制する城でもあった。その姿を再現するため、干拓地を湖に再生するという選択肢もありうるだろう。

 安土城を核とするまちづくりによって、「安土」が日本のみならず世界に通じるブランドになるうると思う。時間はかかるが、むしろそのプロセスこそが重要だ。多くの謎をもつ安土城について考え、議論するだけでも楽しい。石垣の発掘を市民参加でやろうというアイデアもでている。課題は多いが、実施の際にはぜひ参加したいと思っている。

 

安土城を象徴するまっすぐ伸びる大手道
安土城を象徴するまっすぐ伸びる大手道
安土城天主台跡。八角形の特徴ある形が天守指図に描かれた図と一致したことが内藤案の根拠
安土城天主台跡。八角形の特徴ある形が天守指図に描かれた図と一致したことが内藤案の根拠
天守台から北を望む。かつてはここに湖が広がっており、安土城が琵琶湖を制するための城であったことがわかる
天守台から北を望む。かつてはここに湖が広がっており、安土城が琵琶湖を制するための城であったことがわかる
昨年34回目を迎えた「あづち信長まつり」での和船でパレード。背後の小山が安土城跡
昨年34回目を迎えた「あづち信長まつり」での和船でパレード。背後の小山が安土城跡
安土城城郭資料館にある復元模型(内藤案)
安土城城郭資料館にある復元模型(内藤案)
(2019.2.8/石田富男)

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