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関宿の町並み保存


スペーシア新人研修レポート(1996.10.13・23)

 1.はじめに

 公団需要の統計データ収集に三重県庁に行った時に、たまたま関宿のパンフレットを見つけ、町並みの写真が美しかったので一度は訪れようと思っていた。

 今回、10月13日と23日の2回訪れ、1回目は関宿中央部の和菓子の志ら玉屋のおばさんに、2回目は関町産業課の職員にお話を伺った。

2.経緯・背景

 関町は古代7世紀頃、越前の愛発、美濃の不破とともに三関といわれた鈴鹿の関が置かれていた場所で、町名もこの名に由来する。

 慶長6(1601)年徳川幕府による宿駅の制度化によって東海道53次の47番目の宿駅となった。両端を追分で限られ、東の追分は東海道と伊勢別街道が分岐し、西の追分は東海道と加太越えの大和街道が出会う交通の要衝であった。最盛期には本陣(大名・高僧が宿泊)2、脇本陣2、旅籠42軒があった。

 宿制廃止後、国道1号線が関宿を通る街道筋からはずれた南側に建設され、しかも住民が保守的であったために開発を免れ、東海道の旧宿駅のなかでも最も数多く町屋が残った。

 戦後の高度成長期を経て、高山や妻籠をはじめとして保存運動への全国的な動きが起こりはじめた。関宿の保存運動は、1977(S52)年頃に朝日新聞のある記者が関宿を訪れ、町並みに感銘し、当時の町長に手紙を出したことに始まる。

 1980(S55)年に保存条例を制定し、1984(S59)年には東西両追分の間が国の重要伝統的建造物群保存地区の選定を受けた。さらに1986(S61)年には「日本の道百選」の選定を受けた。

3.意義−現在も生活が営まれているなか、まちづくりにどのように取り組むか

 関宿は妻籠や馬籠と大きく違った点がある。前者が今も生活が営まれているのに対して、後者は観光地化されている点である。このようななか、関宿では役場の職員がどのように町並み保存に取り組んでいるかを以下のように整理した。

@アクセス道路を整備する

 保存地区に指定されて、まず行われたことは、街道側の町屋のファサードを残したまま、アクセス道路を街道の南北両側の道から導入することであった。

A空き家は町が買い取って外部から住民を呼ぶ

 志ら玉屋のおばさんは、30年途絶えていた志ら玉屋を復活させたいという町長からの強い要望があり、お店を開くために外部から呼ばれた。本来なら、実際にこの場所で和菓子作りを見せるのが一番よいのだろうが、機械を設けるには一軒ではスペースが充分でなく、しかも機械の音で近所から苦情を言われるため、ここでは開くことができず、和菓子の販売のみにとどまっている。

 役場の職員の話では、町並みに魅せられて横浜から移り住んだ人もいる。生活の場でもあるからこそ、町屋に住む人を外部から呼びよせている。

B伝統のある技術を見せる

 趣のある”かじや”の看板を見かけたら、それはこの場所で12代続く片岡昭夫氏の鍛冶屋である。観光客に技術を見せるだけでなく、近所の農家の農具を直したりして、実際に生計を立てている。関宿には桶づくりの服部重三氏もいて、伝統技術を今に伝えている。

C町並み保存は時間をかけて

 住居の建て替えをする場合、条例で町屋の外観から内側の寸法まで決まっている。町から補助が出るが、予算の都合上、建て替えの順番が決まっていて、志ら玉屋も順番待ちである。

 自分の家を建て替えるにも規制が厳しいので、最初は半分以上の住民に受け入れられなかった。しかし、建て替え後にデザイン面も住環境も改善され、周辺の住民も少しずつ協力するようになってきた。

 町並みとして整備するには、時間をかけて行わなくてはならない。我々に将来まで課せられた業務であると、その職員は話された。

4.感想

 歴史的町並みは、外部からの建築家・歴史家や観光客には好まれるが、そこで生活を営んでいる住民にとっては必ずしも良い環境とは言えない。建て替えようにも規制が厳しいため、良い住環境を求めて周辺部の新興住宅地に人口が流出しているそうだ。街道の両端では空き家も目立った。

 しかし、これだけ歴史的建築が残っている場所を、住民が反対しているから近代建築に代えてしまおうという人はまずいないと思う。各地で失われつつある伝統的町並みと現代の生活とのギャップを時間をかけながら少しずつ埋めていく必要性を感じた。

(浅野 健)